小松原一男さんへの敬意を表して
今世紀最後の魔術師の一人
ピェール・ジネル
小松原一男さんは、2000年3月24日に長い闘病生活の末、逝去されました。
その日、偉大なイラストレーター(絵描き)というだけではなく、寛大な人が亡くなったのです。
小松原一男さんは、フランスに日本のアニメを導入し、発展させ成功の礎を築いた方でした。
1992年に幸運にも初めて小松原一男さんに会えた時、それはまるで夢が叶ったようでした。私は"全て"を始められた人にやっと会えたのです。少しずつお逢いする機会を重ねていくにつれて、才能あるイラストレーターという影にかくれていた彼自身を尊敬し始めました。
小松原さんは同輩、仲間そして彼の元で仕事をしていた人々に対して、いつも礼儀正しさと優しさを示していた人でした。彼は、柔軟な心を持って、初対面の人々にでも遠慮せずに冗談を言ったり、会話をしたりしていました。けれども、欠点が二つがありました。彼はかなりの愛煙家でビールが大好きな人だったのです。どんなに忙しくても飲みに行くこと、そして夜遅くカラオケに行くという機会を逃すことはありませんでした。
しかし、彼は仕事という役割をとても大事にしていて、真剣に取り組んでいました。どんなシリーズに参加してもいつも献身的に働いていました。彼は初め、グレンダイザーが好きではなかったことを私に打ち明けてくれました。そしてゲッターロボの作画監督を担当して、グレンダイザーの製作を荒木伸吾さんに委任してしまいました。ただし、このシリーズの前半49話分(なかでも作画監督としての6本)への彼の参加は、そのシリーズの続きにとって、とても重要なものでした。小松原さんは豊富な経験があり、大先輩であったにもかかわらず、新しい作品に対していつも控え目に、スタッフ全員をたてる様に行動していらっしゃいました。そして作品によってはためらうことなく、作画監督から一原画家に転身なさいました。彼は常にハイレベルを保ち、「小松原さんは独りで働き蜂の人」と呼ばれていたのです。それゆえに、とても高く評価されていた人でした。りんたろうさんと共に製作なさった「銀河鉄道999」の劇場用長編と同様に、宮崎駿さんとの仕事はとても大変でしたが、「風の谷のナウシカ」は彼の一番好きな作品の一つだったのです。
彼によれば、一番良い思い出の一つは二度目のフランス旅行、なかでも「カルトニスト」大会の観客から受けた歓迎だということです。あの時、アニメという「言葉」は本当に世界共通なものだと強く感じ、自分の努力は報われたのだと、大変感激されていました。
お亡くなりになるその時まで、あの旅行での名づけ難い喜びを感じていたのです。この思い出を彼は大変大事にしていたので、お葬式の日にナオ子夫人は、写真のアルバムとカルトニストに関する記事を飾られたのです。小松原一男さんは去年、10月のバルセロナのフェスティバルにも招待されていましたが、体力的に許されずに参加できませんでした。
小松原さんは、1年にも及ぶ病気との闘いの間も、けっして希望とユーモアを失っていませんでした。
今日のアニメ界、又はヨーロッパのアニメ界(特にフランスにおいて)は偉大なる人を失ってしまいました。
私個人にとって、その気持ちは誰よりも深いものです。グレンダイザーの第1話がフランスで放送された時、その時私は本当に「生まれてきた」と感じられたので、小松原一男さんが亡くなったことは、父親を失ったような気持ちです。
近藤喜文さんに続いて、小松原一男さんが「さよなら」を言いました。
もし「誰か」が天国にいるのならば、その「誰か」はとても運がよくて、素晴らしいスタッフとアニメを制作することが出来るでしょう。
ナオ子さん、これからの私達の想いはすべてあなたへと向っています。
フランスの専門誌「アニメランド」61号(2000年5月)より(翻訳:ペギー・ラデン&鈴果)