村田耕一 Koichi Murata
<テレビアニメ創成期から現在までを率いたベテランアニメーター>
1970年に小松原一男等と共にOH!プロダクションを設立し、初代社長・塩山紀生の跡を継ぎ、37年の長きにわたり経営に携わる。才田俊次等と『タイガーマスク』('69)など多くのテレビ・劇場作品の作画を手掛け、高い作画力を誇るスタジオとしてオープロを率い、アニメーションの発展に貢献した。友永和秀、丹内司、山内昇寿郎、高坂希太郎、飯田馬之介など同社から育った人材は非常に多く、現在のアニメ業界の活況を支える礎となっている。 また、相原信洋(映像作家)、高橋春男(漫画家)、五味洋子(評論家)、なみきたかし(研究家)などテレビアニメの枠外で活躍するユニークな人物も多数育てた。 自らもアニメーターとして活躍し、『ルパン三世』('71)『赤胴鈴之助』('72)『アルプスの少女ハイジ』('74)『母をたずねて三千里』('76)『未来少年コナン』('78)など一連の高畑勲・宮崎駿作品の中心メンバーとして参加し、現在のスタジオジブリ設立への原動力ともなった。'75年には高畑勲を自社に招いて宮沢賢治原作の『セロ弾きのゴーシュ』('82)を7年がかりで自主製作するなどプロデューサーとしても活躍した。(1981年毎日映画コンクール大藤賞受賞) 村田はまた、温厚な性格で年齢や職業を問わず誰からも慕われる人格者でもあった。浮き沈みの激しいアニメ業界にあってオープロが一貫して作画スタジオの中心的な存在であり続けていることは、その温かく人望の厚い人柄によるところが大きい。 (敬称略) |
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プロフィール Profile 1939年4月5日、新潟県刈羽郡(現柏崎市)生まれ。アニメーション作画監督、作画スタジオOH!プロダクション(オープロ)代表取締役。 柏崎農業高校を卒業後、絵を描く仕事を志して上京。美術学校に通う傍ら牛乳配達、中華料理店の出前、看板描き等さまざまな職業経験を経た後、アナグマ・プロに入社。その後ハテナプロダクションに移り、'70年5月、塩山紀生、小松原一男らとともに杉並区天沼にオープロを設立。'70年代前半は東映アニメーション作品、東京ムービー作品を、後年からは日本アニメーションの世界名作劇場シリーズにおいて、中心的なアニメーターとして原画・作画監督などを務めた。 '82年にはプロデューサーとして高畑勲監督の「セロ弾きのゴーシュ」をオープロの自主製作で完成させた。 また、アニメーション事業者協会副会長を務め、杉並アニメ振興協議会の活動にも積極的に参加するなど、業界全体の発展にも大きく貢献した。 2006年11月7日、クモ膜下出血のため死去。享年67歳。 |
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主な作品 戦え!オスパー(1965)〈原画〉 タイガーマスク(1969)〈作画監督〉 アタックNo.1(1969)〈作画監督〉 ルパン三世(1971)〈原画〉 赤胴鈴之助(1972)〈作画監督〉 パンダコパンダ(1972)〈原画〉 パンダコパンダ 雨降りサーカスの巻(1973)〈原画〉 荒野の少年イサム(1973)〈作画監督〉 アルプスの少女ハイジ(1974)〈原画〉 フランダースの犬(1975)〈原画〉 母をたずねて三千里(1976)〈原画〉 ピコリーノの冒険(1976)〈作画監督〉 シートン動物記 くまの子ジャッキー(1977)〈原画〉 ペリーヌ物語(1978)〈作画監督〉 未来少年コナン(1978)〈原画〉 赤毛のアン(1979)〈原画〉 トム・ソーヤーの冒険(1980)〈原画〉 ふしぎな島のフローネ(1981)〈作画監督〉 南の虹のルーシー(1982)〈作画監督〉 セロ弾きのゴーシュ(1982)〈製作〉 牧場の少女カトリ(1984)〈原画〉 小公女セーラ(1985)〈原画〉 愛少女ポリアンナ物語(1986)〈原画〉 はれときどきぶた(1988)〈製作〉 ちびまる子ちゃん(1990)〈原画〉 家なき子レミ(1996)〈原画〉 中華一番!(1997)〈原画〉 メトロポリス(2001)〈原画〉 それいけ!アンパンマン・クリスマススペシャル(2006)〈原画〉 |