青春映画としての「セロ弾きのゴーシュ」
監督 高畑 勲


賢治の考えていたゴーシュは決してかけだしの新米演奏家ではなく、前に別の楽団にいたこともあるウダツの上がらぬ職業楽士でした。長年のヘボ楽士が突然名人に変貌する。そこには寓話としての強さと明快さがありますが、私達はやはり自分たちの素直な読みに基づいてゴーシュを煙草を吸うには若すぎるくらいの青年にせざるをえませんでした。
 私達は、ゴーシュという下手なセロ弾きの中に、内気で劣等感が強く、それでいて自尊心を傷つけられることには敏感だった自分達自身の青春時代の思い出や、対人関係に極度に臆病なあまり、無愛想で無表情にみえるまわりの青年達の似姿を見出したのです。
 ゴーシュが楽長に叱られた晩、猫に怒りを爆発させる気持ち、それが私達には実によくわかります。あれは、ゴーシュの精神衛生上絶対に必要だったのです。おそらくゴーシュは人前では怒ることも出来ずに来たにちがいありません。彼の生み出す音楽は、単に技術未熟のせいばかりではなく、心が開放せずに内向しているからこそ、萎縮してのびやかさに欠けているのです。楽長が「表情ということがまるで出来ていない」と評するのも当然です。しかしこの晩からゴーシュは迷惑がり怒りながらも動物たちを受け入れ、次第に心がほぐれていきます。内気な人付き合いの悪い人が子供や動物とは上手に遊べる例がよくありますが、動物達はゴーシュの心のウォーミングアップにまたとない相手をつとめてくれたのです。
 私達は「セロ弾きのゴーシュ」をただ芸術家に固有の物語と考えたり、そこで語られているテーマを芸術論だけに限定するのは間違いだと思います。もっと普遍的な受け止め方があると思うのです。
?ごく平凡な青年がある目的に向かって突進していくとき、自分の目的に係りがないとはいえないが、むしろ邪魔なこととしか思えない出来事に見舞われ、人と出会う。青年は迷惑がりながらもその出来事や人を受け入れざるを得ない。そして青年の心にいつしか真の自発性と他者への愛が生まれ、その力によって青年が飛躍的な成長を遂げるが、本人はまったくそれを自覚していない。まわりの人が青年の成長におどろき、それを指摘しても青年には信じられない。だがそれが疑いようもなくなった時、あのときの出来事が一瞬にして青年の脳裡によみがえり、その意味の深さを悟って深い感動にとらえられる。人生の重大な転機は往々にしてこのように訪れるものだ?。
 楽団で一番下手な楽士、セロ弾きのゴーシュとは自分自身のことであり、すべての青年のことです。だからこそ私達はゴーシュの奇跡的上達をともに心から喜んでやりたい。原作の素晴らしい幕切れ、あの深々とした余韻をたとえ犠牲にしてもゴーシュをいくらかでも孤独から救い出したい、ゴーシュに人間に入っていってほしい、青年はそうして成長していくのだし、音楽こそは人と人の心をつなぐ最大の武器なのだから・・・。私達はこういう思いで映画のラストシーンを構成したのでした。
映画「セロ弾きのゴーシュ」は、親と子のための楽しいメルヘンであり、音楽への愛と芸術の厳しさ暖かさを物語るものですが、私達にとって主観的には青春映画でもあります。
親離れ=自立に向かって苦闘している中高生や青年達にもぜひ観てもらいたいと願う次第です。

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